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安福呉山「西園流の始祖兼友西園

西園流を起こした兼友西園についての記事を見つけました.
1927年(昭和2年)に名古屋で発行された月刊文芸誌「紙魚(しみ)」の記事です.

安福呉山(遺稿)(1927)「西園流の始祖兼友西園」紙魚 第14冊

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筆者の没年が記載されていて,それによれば著作権が消滅していることが明らかですので,以下に書き写します.

 古來名古屋は藝所であり,又それだけに各方面に亘つて名人偉人を多く出してゐる。筝曲に於ける吉澤檢校の如き其天才的作曲は單に當時の斯界を風靡したるに止まらず,現在も名曲として全國に持て囃されて居る。古今千鳥の曲こを寺澤檢校の作曲である。
 琴と尺八は親類筋,その尺八にも又吉澤と併稱すべき名人を出して居る。兼友西園其人で,共に我中京の誇であり,永遠に邦樂史上に偉彩を放つものであると思ふ。
 氏は本名を兼友彌曾左衛門盛延と云つた。西園は號であつて盛延の音讀セイエンより來たものらしい。家は代々菅原町眠光院西隣に住し砥屋を業とした。淸州越二十七人衆の一人,千石船五艘の持主であつたと云ふから,可成の資産家に生れた譯であるが,物質に執着せず,終始尺八に一貫した氏の晩年は赤貧洗ふが如きものであつたと云ふ。
 其門下からは,明暗流創始者を以て鳴る樋口對山,内田紫山等の秀才を出してゐる。此人に依つて,現在の西園流は生れたもので,将來全國的に發展する可能性を持つて居る。
 幼少より尺八を好んだ氏は,遠州普大寺の虚無僧,梅山玉童の兩氏に就てより,其技大いに進み,遥に兩氏を凌駕したのと事で,習得した曲は本曲十一曲に過ぎなかつたけれども是に依つて得た知識は廣大なものであつた。當時,尺八と糸曲との合奏が完成されて居らぬ時代に,自信を以て,猛然合奏研究に精進し,後人の爲に其範を垂れたものである。一体に性質が恬淡無慾であり,頑固一徹である氏は無暗矢鱈にどの曲にも手附すると云ふのでなかつた爲,其曲數は少なかつたが,其半面に其手附は研究され洗練されたものであつた。
 氏の逸話は澤山あるが,其内一二を摘記すれば・・・・・現在榮町に巍々として聳え立つ十一屋呉服店に,懇望せられて養嗣子となつた幸運の位置青年兼友西園,不相變得意の尺八に浮身をやつして商賣には無關心,今日も朝から虚空の一曲に,尺八三昧,陶然と吹き終るや,鋭敏な彼の鼓膜を驚かしたものは隣室にさゝやく番頭の聲であつた。
「アア又尺八か・・・・・大商店の・嗣子ともあろふものが」と云ふ嘆息の聲である。氏は即日家出した・・・・・愛管を手にして・・・・・そして使者を以て再三復縁を迫られても斷然之に應ぜず,遂に尺八専門家として細き煙を立てるに至つたのである。
 老後,魚の棚などから,高貴の方々の招聘があつても應ぜず,家計等は一切無頓着で,妻女おこうさんの心勞も普通大低[ママ]ではなかつたらしい。米錢はもとより薄茶三匁買ふ事さ出來ぬ折にも,平然尺八を吹いてゐたとの事。
 明治二十八年三月二十一日,享年七十八を以て他界した法名を宮外韻商居士と云ふ。内田紫山,樋口孝道兩氏發起に依り大光院に碑を建立,後移されて今は東郊覺王山にある。

編集後記に記された筆者の安福呉山氏についての記述です.

安福呉山氏の西園流の始祖兼友西園の稿は早く頂いたのだが,別に計劃する所あり,今日までその機會を待つてゐたところ,氏は突然十月九日に永眠された。そしてこれが氏の遺稿となつた。氏は市内中區金澤町に住し師西園の流れを汲み尺八西園流の宗家として斯界に重きをなしてゐたが,年齒[ママ]わづかに三十八にしてこの訃に接した。哀悼の念に堪へない。

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