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大日本音楽協会編纂 (1941)「音楽年鑑」

大日本音楽協会編纂 (1941)「音楽年鑑」 共益商社書店

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この本は当時の全体主義的な社会体制の中での音楽界を網羅した年鑑のようなのですが,この時代を反映してか,とんでもない記述があります.

洋楽界については比較的,行事や状況を叙述的に淡々と書いているのですが,以下の引用が尺八を含めた邦楽界についての記述の抜粋です.
(  )は抜粋作業のための私の注釈です.

===
邦樂界概觀

日本文化中央聯盟主催の藝能祭に邦樂から
(も参加したものの)上演された新作曲なるものは決して現代を代表したものでも亦紀元二千六百年を代表して後世に胎し得べき傑作でも何でも無かつた.その理由は當事者の思想なり藝感といふものが江戸時代その儘の模倣羅列に過ぎず(,江戸時代の曲の)替歌に過ぎないからである.

邦樂界共通の惱みはその題材,作品が舊體制のしかも何等國民的自覺も無く刹那的享樂主義に終始してゐた江戸時代に作られたものが多いだけに,之等の遊蕩的題材の作品を,新體制下に如何に取上ぐべきかで,道行と心中より外には殆んど作品の無い或る流派の如きは殆ど致命的でさへある.

元來が低徊趣味に唯一の存在價値を置いてゐる邦樂がどれ程の更生振りを示すかは相當に問題であると云はねばならぬ. 


(以下のレコードについては歌謡曲への記述も含みます)


邦樂レコード概觀

『卑俗な流行歌や或は有つて無きが如きレコードは,自然淘汰ともなり勝ちなことを豫測させる』と筆者は昨年度の本項末に書いて筆を擱いたが,その豫測は昭和十五年度になるや現實の問題となつて現はれた.

材料の入手難は昨年度に較べて春には四割,秋に至つては更に二割を加へて合計約六割の強化となるに及ん
(だ.)

冒頭に掲げた昨年の言葉の引用は娯樂としてのレ娯樂としてのレコード淨化を望む筆者の意見であるがこのことは大局からみれば,むしろ喜ぶべき現象として受け取りたかつたのである.

===

自らの固有の文化の伝統をこれほどまでに侮蔑するとは,一体,どういう感覚なのでしょうか?

江戸時代は「何等國民的自覺も無く刹那的享樂主義に終始してゐた」のでしょうか?

邦楽は「低徊趣味に唯一の存在價値を置いてゐる」のですか?

ワーグナー,リヒャルト・シュトラウスのようなドイツの劇的な高揚をもつ音楽,吹奏楽の行進曲のような軍隊的な音楽が,この当時の社会が求めていたものだったのでしょう.

それはそうだろうと諦めのような一定の理解(?)ができるものの,しかし,ここまで書きますか? と,呆れました.

おそらく本音とは異なる世間向けのタテマエの文書だったのだろうとは思いますが,それにしてもここまで書きますか?

ひどい時代でした.

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