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小林紫山「明暗尺八解」

国会図書館の蔵書から小林紫山「明暗尺八解」を得て,その要点を私のHPにアップしました.

小林紫山「明暗尺八解」
1916年(大正5年)  京都・明暗流尺八本部
(著作権保護期間満了)

        

Kobayashi1

緒言によれば,本書を刊行する目的は本曲の標準を定めることにあると言います.

歌曲吹奏については,箏三絃等の標準とするものありて,容易に研究を爲すことを得れども・・・[中略]・・・本曲の標準とすべきものゝ何者たるやに至つては其の解釋,一朝一夕に語り得べきものにあらず。畢竟は深き研究の中に,自然と悟り得べきものである。

[中略]

こゝに形式をつくり,一定の標準を定めたる迄にして,畢竟は之に依て,音韻の研究を爲し,進んで曲一曲の眞味を悟らんとするのである。

本文の最初には尺八の歴史が記述されています.ここでは普化禅師,張伯,法燈国師,朗庵,楠正勝など,普化宗伝説の一連のキーワードが並びます.本書の位置を考えれば,これが京都明暗寺での普化宗の公式見解とも言えるものでしょう.このような伝説が明治4年の虚無僧寺解体を経てどのように伝承されたかが興味ある問題です.ともあれ,紫山氏は,尺八は「精神修養の資たるべきものなる(緒言)」と考えていたのですから,江戸時代の虚無僧集団とは違った意味で,この時代の尺八演奏家にはこのような宗教的説明が必要だったのかもしれません.

演奏技術の記述は概念的で,例えば演奏の姿勢とは「大地に生へ秡いた巨木の如く雄大に,一秒の間隙をも容れぬ,動せざる静止沈着の態度」というように,比喩的な説明のため本書から具体的に読みとることはできません.大きな心構えが書かれているようです.

カリとメリについては詳しく説明されています.その記述はやはり具体性が欠けるのですが,顎を俯向けにしたものがメリ,仰向けにしたものがカリと明言されていて,指孔の半開については言及されていません.

「メル」「カル」は,音の上の綾であり,抑揚であり,變化である.激湍岩を?むの水勢も,(カルの味ひ)終には深淵渦を爲すの,洋々たるが如く,(メルの味ひ)そこに自づからなる,清澄の氣が充實している.「カル」の高調は,天に通ずの氣あり,「メル」の整調は,地に徹するの思ひがある.

このように,「メル」の音と「カル」の音を明確に区別しています.それはそうだろうと一定の理解はできるのですが,一方,かつて宮川如山氏の演奏の録音を良質のSP盤と最高級の再生機という現時点での最良の状況で詳しく聴いたところ,メリ音はほとんど「メリ込んで」おらず音程も下がっておらず,私の耳ではメリ音とカリ音の音質の差異もほとんど聞きとれませんでした.また,現代の明暗教会グループの演奏を聴いてもメリ音がカリ音と大きく区別されているようにな感じられません.小林紫山氏の「音の上の綾・・・」の記述が「言葉の綾」に過ぎないのか,また地域(東京⇔京都)や時代(大正→昭和・平成)によってメリ音の扱いが変化しているのか・・・・どうなんでしょうか?

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コメント

HPの「明暗尺八解」本文の丁寧かつ有用なご記載、感謝いたします。
近代デジタルライブラリーの資料を確認して、二点ほど気になるところがありました。

1「普化宗の如きは,佛教として尊重し」
 →「普化宗の如きは,佛器として尊重し」

 「佛教」は「佛器」のように読めます。

2「人々の個性によりて多少の變化を免かれども」
 →「人々の個性によりて多少の變化を免かれず」

 「ども」と読まれた文字ですが、「寿」の草書体に濁点を打って「ず」と読ませたいのかと思います。
 元資料10ページ、「最後の半開は多く用ひず」でも同じ文字が使われていますが、「用ひども」ではなく「用ひず」と読んで意味が通じるかと思います。

なお、このコメントはお邪魔でしたら削除してください。

投稿: ペリー | 2011年7月 7日 (木) 16時01分

私も長年(およそ30年)ほど明暗対山派の尺八を吹いてきましたが、メリ音がほとんどないことが非常に気になっていました。最近では、メルべきところはメッて、自分が納得するように吹いています。樋口対山は、おそらく、正確にメリ音を出していたと思います。しかし、その後の高弟のいずれかが、極端な精神論に走り、音楽としての尺八の修業をおろそかにしたので、メリ音があまくなったのだと思います。メリ音を正確に出すにはそれなりの修練をつまなければなりません。大先生のメリ音があまいので、弟子たちはそれが当然だと思い込み、それが今まで伝わってきているのではないでしょうか。
また、対山派が極端な精神論に偏っていることについて行けません。音楽としての美しさや感動というものを否定し、ただひたすら自分の修業のために吹くというのはいかがなものでしょうか? そのような尺八を好む人にとっては、音程がおかしいのは気にならないのでしょうね。
まあ、感動や喜びを分かち合える友と尺八を楽しめばよいのでしょうね。

投稿: 高澤清峰 | 2012年12月20日 (木) 16時54分

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