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保坂裕興(2000)「虚無僧 -普化宗はどように解体したか-」

保坂裕興(2000)「虚無僧 -普化宗はどように解体したか-」 "高埜利彦編「民間に生きる宗教者」シリーズ近世の身分的周縁" 吉川弘文館

虚無僧の歴史はアマチュア歴史家が調べていることが多いのですが,これは日本史の専門家による論文です.「普化宗はどのように解体したか」というサブタイトルから,明治新政府下での虚無僧集団の動きかと読む前には思っていましたが,そうではなく,江戸時代末期から始まって明治2年の太政官令に向かった,その「解体」過程の論説でした.専門家の論文として学ぶ事が多く,詳しくは皆さんに読んでいただきたいのですが,読みながら考えた3点を以下に書きます.

1.「薦僧」,「ぼろ」が江戸時代に入って江戸幕府の統治の下で集団としての生き残りをかけて「・・・不幸の武浪を普(ひろ)く救い,現世を助くる滋宗,・・・・これにより宗門は武門の為にまかり成り・・・」と幕府に申請します.このことは良く知られているとおりです.これを「侍滋宗(さむらいじしゅう)」説と言うのだそうです.これにより虚無僧集団は町奉行と寺社奉行の管轄の狭間に居すわることに成功しました.しかしあらためて考えれば,程度問題はあるにしてもそれまではある程度の宗教的(宗教風?)行動をしていたにも関わらず,ここにきて身分制度に絶対的に依存することによって初めて宗派を成り立たせたのですから,人生の救済であるべき宗教としてはその設立から矛盾をはらんでいたことになります.

2.虚無僧の(強引な)「托鉢修行」によって虚無僧寺と村落の間に緊張関係が成立し,その解決のために留場制度が各地で出来て,「托鉢修行」をしなくても一定の収入を得られるようになったことも良く知られています.虚無僧は葬儀などの公式の仏教儀式はできませんので,一般人との「宗教」的接点は「托鉢修行」しか無かったはずです.それにもかかわらず留場制度が成立したということは,「托鉢修行」などの「宗教」活動をしなくても虚無僧の生活と集団が成立するという意味でもあり,ここにも宗教上の矛盾が発生しています.もちろん,留場の縄張り争いで虚無僧寺間で殺傷事件に至る争いを起こしていたということは,宗教としては論外です.

3.「慶長条目」(または「慶長掟書」)については,江戸時代末期に幕府によってその正統性に疑問を持たれていたにしても,アマチュア歴史家の努力も含めて史料を積み重ねるという明治以降の近代の歴史研究手法によって初めて偽書と断定されたのかと私はこれまで思っていました.しかしそれは間違いで,1847年(弘化4年)ころまでに寺社奉行内籐紀伊守信親によって,先行文書や先例の調査に基づき,完全に偽書と断定され,その裁定によってその後の幕府の虚無僧対策が方向転換され,明治2年の普化宗廃止に至ったのでした.

この論文の著者は,論文の最初に「虚無僧たちは『明暗の彼岸』にたどりつくことができたのであろうか」と問いかけ,論文の最後では「『明暗の此岸』にとどまり・・・」と対応させています.

江戸時代の虚無僧の尺八演奏がどのようなものだったかが今だに私にはわからないのですが,現代の「虚無僧」を含めて虚無僧尺八曲の現代の演奏者たちが,「伝統」を重視し,また「宗教」を志向すればするほどに,その演奏は近代的,現代的なものになっているように感じられるのは,どうも必然のように思われます.ただ,私はそれが悪いことだとは思っていません.

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