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Piggott再び

今日,いつも出席している英語の学習会があったので,PiggottのThe Music and Musical Instruments of Japanを輪読のテキストに使いました.1893年(明治22年)の著作ですから古風な英語ですが,皮肉なことに同時代の二葉亭四迷や幸田露伴らの日本語作品よりは読みやすいように思います.

さて,それはともかく,音楽の門外漢との会話に刺激されていろいろ考えました.

19世紀は西洋クラシック音楽の大きな変革期で,それまでのハイドンやモーツァルトに交響曲や管弦楽曲はあったにしても,ベートーベンの初期の交響曲ころまでは,弦楽四重奏曲の弦楽器の数を増やして,アクセント付けに管楽器と打楽器を加えた程度だったものが,ベートーベンの後期の交響曲から急に巨大化し,複雑化し,1824年の第九には合唱団を入れれば200人以上の大演奏になっています.1830年にはベルリオーズの幻想交響曲,1865年にはワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」,1876年にはブラームスの「交響曲1番」.そしてPiggottの著作の2年後の1895年にはマーラーの交響曲「復活」.しかも産業革命によって弦楽器の弦はガット弦から金属弦に変わり,音色は明るく,音量は一層大きくなっていました.管楽器も改良されて大進歩しました.

また,19世紀の西洋では民主主義の台頭とともに西洋と西洋合理主義思想の世界の中での優越性の考え方が支配していて,音楽についてもその観点から日本も非音楽的な国とみなしていました.

そんな時代にPiggottは来日し,三味線のtinkling(ポロン,ポロン)を聞いたのです.なんじゃコレ?と感じても当然でしょう.しかし,来日直後,夜の中禅寺湖畔で,参拝者が灯した無数のロウソクが湖水を照らす中,突然にその水面をわたる明るくやわらかな尺八の音を聞いて感動してしまい,その感動が何だったかを考え続けたようです.そして,西洋音楽の感動の少なからぬ部分が音量とそれに伴う音の威圧感にあるとして,日本の音楽の美しさはそれとは別の所にあると看破しました.

この感動が動機のひとつになって,この労作をしたためたのだろうと思います.上原六四郎の伝統音楽の分析に関する画期的な著作「俗楽旋律考」の2年前です.結果として,明治初期の日本の音楽事情の客観的で冷静な貴重な記録になりました.

Piggottの立場は,日本の音楽を西洋の立場から理解して,説明しようとしたものだと思います.ピアノによって日本の伝統音楽を記述します.しかし,自分は日本音楽を体験しているから五線譜で説明できるが,体験したことのない人にとっては五線譜表記は十分でないと言っていることからも,また口伝されている一音ごとのニュアンスの重要性にも言及していることから,西洋音楽と日本音楽の本質的な違いについて相当の理解があったものと思われます.

しかし,一方,同時代のアーネスト・フェノロサが日本画で,少し遅れてブルーノ・タウトが日本建築,バーナード・リーチが陶芸で日本の伝統を発見し,日本人がそれらの価値を再発見するきっかけを作ったのに対し,Piggottは,少なくとも私の知る範囲では,邦楽にほとんど影響を与えませんでした.これには二つの理由が考えられます.ひとつは,この3人とは異なりPiggottは帰国してしまっていたこと.もうひとつは,少なからぬ日本の邦楽関係者,特に尺八,箏,三味線演奏者が,明治中期以降,自らが受け継いだ伝統の価値に十分気付くことなく,西洋至上主義の思想体系中での「中の上」に自らを位置付けてしまったことだろうと思います.

このような会話をして,楽しみました.いつも楽しい「英語(?)学習会」です.

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藝術新聞:その2 藤田松調インタビュー

前回に書いた藝術新聞に藤田松調へのインタビューが掲載されていました.

松調流の開祖 尺八藤田松調君を訪ふ:1916年(大正5年)9月20日 第122号

松調流は宗悦流に属するもので,尺八の関西音符に半音の表記などに西洋の音符を混ぜて,「所謂和洋折衷的のものを創作した」ものとしています.奈良で盛んに行われていますが,大阪ではそれほど広まっていなかったそうです.

ただ,藤田松調(1910年:明治43年)「尺八音譜解説」に練習曲が掲載されているのですが,その楽譜をみてもどの点が和洋折衷かが,わかりません.清書した伝統楽譜に見えます.

尺八を構える姿勢について説明した後,尺八が健康に良いことが強調されていて,「私は尺八を始めてから今年で二十有余年間ですが一度も医師の厄介にあつた覚えがありません.お医者さんからは嫌ものとなつて居りますハハゝゝ」と,言っています.

記事の内容は概ねそれだけです.藝術新聞なのですから尺八の芸術性についても少しは扱ってもらえなかったかなぁと思います.

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藝術新聞

「藝術新聞」という新聞を見つけて,その一部分を見ました.私が見たのは1916年(大正5年)9月ころの一部でした.月に2回の発行で1916年9月に121号ですから,1911年(大正元年)ころの発刊だと思われます.邦楽界に特化した新聞です.意外なことに琵琶関係が随分と多く,全体の1/4くらいもあろうかと思います.

この中に「京都尺八界消息」の記事があり,京都での虚無僧尺八関係の記述がありました.以下に抜き書きをします.

1916年(大正5年)9月5日 第121号

大阪邊(あた)りで尺八と申せば殆ど糸曲(しきょく)尺八を意味し本曲尺八を聯想(れんそう)する人は殆ど無絶(ぜつむ)と云ふて然るべく從つて本曲尺八界の領域は殆ど無しと申して敢(あへ)て過言(くわげん)に非ずと被存(ぞんじられ)候へ共當地に於ては本曲の勢力仲々に侮り難く・・・(以下略)

然し爲之(これがため)に糸曲(しきょく)尺八が盛んならずと申すにては無之(これなく)糸曲尺八は何分(なにぶん)初歩の人に取つては本曲よりも入(い)り易いものなる故に是れ亦随分盛大に御座候


1916年(大正5年)9月20日 第122号

當地に於て演奏會の最も多き流派は明暗流(本曲)に有之(これあり)候はん該流にては演奏會と云はず吹奏會と申候由而して殆ど月毎に開催致居(いたしおり)候該本曲は琴三絃と合奏する曲に無之(これなき)候へば糸引(いとひき)を招致する手間要らず随時随所に於て吹奏し得る如き手輕なる事がその然る所以かと被存(ぞんじられ)候

これによれば,京都では明暗尺八の活動が随分盛んだったようですが,それは京都に限られ,大阪では明暗尺八は殆どなかったとか.東京が大阪と似た様な状況であれば,虚無僧尺八(明暗尺八)が脈々と現在まで伝えられながらも当時の文献資料に殆ど現れてこない理由のひとつかもしれません.

しかし,明暗尺八の活動が盛んな理由が「手間要らず・・・手輕なる事」以外の理由が無かったのかと思います.

実は123号に京都の明暗尺八が詳細に記述されているらしいのですが,欠本でした.

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虚無僧寺跡?(静岡市清水寺境内)

静岡市の清水寺(きよみずてら)にお参りに行ってきました.地元の言い伝えではかつてここに虚無僧寺があったということです.
http://www.oogosho400.jp/JP/study/13_08.htm

ところが,中塚竹禅,高橋空山らの著書にはこの虚無僧寺の記載はありません.また,地元の図書館で数冊の地元の歴史書をみても清水寺に関係して虚無僧寺の記述はありませんでしたので,この清水寺境内の虚無僧寺については良く判りません.中塚と高橋によれば,静岡市の隣の清水市(現:静岡市清水区)には虚無僧寺の福聚山無量寺があったことになっています.しかし隣とはいえ,清水市は港町で一方の静岡市は城下町で,さらに清水寺は家康が隠居した駿府城の外堀付近にある古刹ですから,清水寺→清水市と間違えられる可能性はまずありません.

清水寺は小高い丘の斜面に建物が散在する真言宗のお寺で,堂宇の一般公開はしていません.中腹に建つ建物の一つ観音堂の背面の崖の下に,虚無僧の墓と伝えられている一基(または二基?)のお墓がありました.

上記のような事情のため,正直言って半信半疑で訪問しました.そのお墓の正面には天保八年と書かれていましたので,年代は妥当です.驚いたことに左側には「普化大禅師」として「円明国師」と「古山禅師」の名前が刻まれていて,また右面には墓の由来らしきものが刻まれていて(比較的鮮明に残っているが,私には読めない)その中に「普化禅師」の文字がありました.さらに背面には和歌が刻まれ,蜘蛛と尺八のレリーフがありました.この尺八のレリーフには竹の節や指孔までしっかりと彫られていました.これは本当に虚無僧寺関係の墓(?)の可能性があります.

この墓(?)が観音堂の背面の崖の下という不自然な場所に立っていることから,この寺の多くの石碑と石仏がそうであるように,どこからか移築されたものだろうと思います.境内からの移築か,または寺外からの移築かは,地元歴史家にでも調べていただきたいと思います.

写真は順に,清水寺本堂,観音堂,虚無僧の墓(?)全景,左側面の「普化大禅師」,背面,背面の尺八のレリーフ.

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松見寺跡

千葉県袖ケ浦市にある旧虚無僧寺松見寺の跡地と,松見寺の菩提寺だった長徳寺(木更津市)に行ってきました.

JR木更津駅からJR久留里線に乗換え横田駅に降り,北西に水田の中を2kmほど行ったところにあります.水田地帯の中に島のように小さな林があり,そこが吾妻神社で,その境内が跡地ということになっています.

3基の看主の墓らしきものが残っていました.市の文化財指定を受けていて説明パネルも設置してありました.

ところで,江戸末期に現兵庫県の出石藩でお家騒動(仙石騒動)があった折,守旧派の密使だった神谷転(うたた)が追手を逃れて一月寺(現松戸市)に入り,本則を受け,1年もしないうちにこの松見寺の看主に任ぜられました.その時,受け入れてくれた松見寺に感謝して神谷が建てたという石碑が建っていました.ただ,個人的にはこちらの信憑性にはやや疑問を持っています.石が比較的新しく見えますし,碑文の書き方も近代的,また隠れ住んでいたのに石碑を建てるのか,とも思いますが,史実を推測しても仕方がないでしょう.ただ,入門して1年程度で看主になる寺というのはどういう寺なのか,と驚きました.いずれにせよ,それまで日の目を見ることのなかった虚無僧寺が幕末の混乱の中で一瞬の雲間の光に当たったというような事件でした.

松見寺は内房の木更津から外房の勝浦に抜ける街道筋にあり,この近辺の街道筋には小さな寺院や神社が並んでいました.長徳寺もその一つでした.吾妻神社の境内には臂松古墳,富士塚(の跡?),御嶽神社などが並んでいて,伝統の一種のスピリチュアルスポットになっているようです.

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