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追分節

明治~昭和初期の文献を見ていると,尺八で演奏される曲として「追分」が多く出て来ます.でも,この「追分」がどんな曲なのか,民謡の一種だろうと推測される以外,良く判りません.そこで,川本逸童「ヴァイオリン尺八追分節」(1912年)の楽譜を1尺8寸の尺八用に書き換えてみました.少し練習してみたいと思っています.

この本には尺八譜とヴァイオリン用五線譜の2種が掲載されています.尺八譜(ロツレチ譜)は良く読みとれませんので,その譜を参考にしながら,五線譜を移調して1尺8寸用に編集しなおしました.ただし,使用している五線譜ソフトの制限があって装飾音が表現できないので,それを補うために少々複雑な譜になってしまいました.ご参考になれば幸いです.

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さて,今年はこれで終わりです.このblogも,始めてから1年もしたらネタが尽きると思っていましたが,まだしばらくは尽きることもなさそうです.不思議です.

では,良いお年を!

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文部省宗教局編(1921-1926)「宗教制度調査資料 第1-19輯」

国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで公開されている文部省宗教局編(1921-1926)「宗教制度調査資料」に江戸幕府の虚無僧寺関係資料が見つかりました.

この資料では,神道・仏教と一部キリスト教の各宗・各宗派の,内部組織等の内規などが調査され,列挙されています.政府による宗教法人管理のための調査の成果だろうと思います.

このうち第19輯は国内の宗教制度の歴史が概観されています.これによると,「上代以来新しき宗派の起る時は,必ず勅許を仰いだ」とし,徳川幕府は「新しき宗派は原則として之を禁じた」,そして明治時代になってからの変化として,江戸時代に厳禁されていた日蓮宗の不受不施派と講門派が公認され,「江戸時代に存して居つた」普化宗が廃止させられたと記述されています.明治になって宗教界に大きな変動がありましたが,政府から廃止させられたのが普化宗だけだったというのは意外な印象を受けました.また,本文では前記のとおり,普化宗は「江戸時代に存して居つた」と書かれていて,「公認されていた」とは書かれていませんし,公認されていた宗派のリストにも含まれていません.虚無僧集団が組織化されたのは江戸時代に入ってからですが,普化宗が「新しき宗派」だとすると,それは禁じられる対象の宗派になりますが・・・?

江戸時代の文書もまとめられています.
 第5輯 江戸時代ニ於ケル住職任免ノ手続
 第8輯 江戸時代宗教制度年表
 第10輯 江戸時代ニ於ケル寺院制限政策
 第12輯 享保七年諸宗法度書 
 第16輯 江戸時代宗教法令集
残念ながら,第16輯以外,これら江戸時代資料は国会図書館に無いようです.第16輯には以下の虚無僧関係文書が掲載されています.第16輯の「例言」によると,「徳川幕府ノ法令ト称セラレルルモノノ中ニハ,往々ニシテ疑ヲ挿ムベキモノアリ.ソノ明カニ偽作ト考へラルルモノハ,ココニハ之ヲ除外セリ.」とありますので,おそらくこの理由で「慶長掟書」が掲載されていないのでしょう.

ところで,これら江戸幕府の公文書には「虚無僧」,「一宗」などの言葉はありますが「普化宗」という言葉は使われていません.はたして江戸幕府は「普化宗」を宗派として認めていたのでしょうか? 「江戸時代に存して居つた」(上記引用参照)というのが実情でしょうか.そういえば偽書「慶長掟書」にも「普化宗」の言葉はありませんので,この点についてはお互いに阿吽の了解があったのでしょうか?

99 虚無僧覚
1677年(延宝5年)12月18日
本寺の住職決定は師弟関係ではなく候補者の器量について本寺と末寺の弟子たちによって決めること.また寺で弟子を採る場合は,罪人を採ることなく,本人を確認し,証人を取ること.寺の関係者で寺の規則に背いたものはその罪に応じて処分し,大きな罪の場合は奉行に報告すること.

165 虚無僧使用深編笠ニ付触書
1758年(宝暦8年)10月
一月寺と鈴法寺の両寺で用いている深編笠については,今後,それを売買には虚無僧寺の印鑑が必要.

166 虚無僧取扱ニ付内達
1759(宝暦9年)閏7月
最近,偽虚無僧がいたので,本則の発行について一月寺と鈴法寺に質問した.寺の印鑑が無ければ網笠の売買が出来ないはずだが,そうはなっていない.また一月寺では本則の扱いにも不適切な点があった.そこで古来からの寺法を守るよう両寺に申しつけた.

167 虚無僧本則付与之定
1759年(宝暦9年)
一月寺では武士以外にも竹名は与えていなかったが本則を与えていた.鈴法寺では本則は与えていなかったが竹名は与えていた.今後,両寺では本則を与える場合は武士に限るとし,人品と過去の経歴を確認し,また証文を取って本則を与えることとする.

178 不法之虚無僧取計方触書
1774年(安永3年)1月23日
村々を虚無僧修行の姿で訪れ,百姓などに布施をねだり,宿を要求し,それが叶わぬ場合に尺八で打つなどの不法を働く者がいた.虚無僧であっても不法の場合には捕えて役所などに召し連れること.

219 虚無僧取締ニ付触書
1847年(弘化4年)12月26日
安永3年(1774年)に触書を出したが,最近.不法狼藉を働く者が多い.武士で素行の良い者であり,証人を立てたものを弟子にすること.修行先では志程度の布施を得て,宿も相談の上で提供されることなど,先の触書どおりと確認する.不法の者はその場所に留め置いて訴え出ること.

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正岡容の随筆「寄席風俗」(1943)

青空文庫で正岡容の随筆「寄席風俗」(1943)に尺八の記述を見つけました.

正岡容(まさおか・いるる):1904(明治37)年~1958(昭和33)
江戸文学や芸能などの研究家兼作者.若いころから永井荷風、岡本綺堂、吉井勇らの影響を受けた.(市川市図書館の解説から)

「寄席風俗」は大正末期の寄席風景を記述した随筆で,正岡の名作の一つです.当時の芸人,彼らの芸が詳しく紹介されています.これを読むと,正岡が寄席を愛していた様子が,良く判ります.その中の「寄席の都々逸」に尺八の演奏が紹介されています.

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尺八の扇遊(立花家)が喨々(りょうりょう)と吹く都々逸に、初秋の夜の明るい寄席で涙をこぼした頃は、あたしもまだ若い、二十一、二の恋の日だった。が――今でもあの人の尺八に言いがたなき悲哀味が、ことに都々逸を吹く時いっそうに強く滲み出ているように思う。
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都々逸に尺八を合せることもあったのでしょうか?

文脈からは大阪の寄席の話とも推測できますが,そのように限定できる文章ではありません.

この立花屋扇遊の尺八には都々逸の演奏に限らず「言いがたなき悲哀味」があったということですが,いったいどんな曲を演奏していたのでしょうか.正岡容が21,22歳の頃,つまり1925(大正14)~1926(大正15・昭和元)ころの話です.

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ピゴット著「日本の音楽と楽器」

ピゴット著・服部瀧太郎訳(1967)「日本の音楽と楽器」(原著は1893)

驚くような本を入手しました.最近までこの本の存在を知らなかったことは迂闊だったと思います.

著者は英国人で,1889年(明治22年)頃に来日して日本の音楽を調査し,帰国後の1893年(明治26年)に出版した本です.このため,明治初期の日本の音楽事情の証言になっています.3部に分かれています.
  第1部 日本人の音楽→日本音楽の歴史と当時の音楽・音楽界の状況
  第2部 日本の音階→箏を使って音階・ピッチ等を分析
  第3部 日本の楽器→30種ほどの楽器の説明
いずれも驚くほど精緻に説明されています.

上原六四郎の「俗楽旋律考」が1895年(明治28年)ですから,その2年前の出版で,調査はその数年前になります.

箏及び筝曲,箏の家元制の説明に費やされているページが多いのですが,これは著者が箏の大家と知りあって調査したことによるのでしょうが,当時,箏が国内で最も広範に習われて演奏されていたということも考えられます.

尺八の記述は少ないながら,しかし特別の項を立てて説明されています.つまり,この当時の音楽界で,すでに尺八は特有の地位を確立していたと考えられます.普化宗廃止後約15年の頃です.

著者は尺八の音色に感動しているようです.尺八の「美しい音色」が繰り返し説明されています.他の楽器の説明にはこのような情緒的な説明はありません.

尺八の「美しい音色がどんなに日本人によろこばれているかということは,この国の音楽を研究をする者にとってすくなからず興味のある問題になる」としています.著者が感動しただけでなく,この時代に,すでに日本人一般が尺八を楽しんでいたことが推測されます.「ひちりきの陰気な響きや悲しげな音を気に入っていた人たちが,どうして尺八を好きになったのだろうか」という文章から,著者にとっては日本人は尺八以前に篳篥を受け入れていて,日本人にとっては管楽器では篳篥を基本軸として尺八を受け入れていると考えているようです.著者は,篳篥と比較しながら,尺八の「美しい音色」を繰り返し説明します.また,来日直後に中禅寺湖畔に滞在していたときの暗い晩に,「湖面を渡ってこの単純な笛のやわらかくてすきとおった音がきこえてき」て,その美しい音に驚いたと述べています.

残念ながら,著者が聴いた尺八の音楽が何だったかの記述はありません.また,尺八の音楽に関する記述もありませんでした.「さいしょから独奏楽器として扱われていたが,(中略)三味線との合奏にはときどき使われている」として,また「最もやわらかい音を出す管楽器のひとつ.」としていますので,著者が主に聴いたものは尺八独奏曲のはずです.いわゆる「追分」でしょうか? それとも本曲なのでしょうか.ただ,虚無僧との関連は一切書かれていませんので本曲である可能性は低いと思います.

別の見方をすれば,この時代は尺八と虚無僧との関係を著者が見つけられなかったほど,虚無僧の影が無かったと考えられます.ちなみに京都東福寺の善慧院を明暗寺とし,京都の虚無僧グループが再興されたのが1888年(明治21年)です.

楽器としての尺八の説明は以下のとおりです.「内側が塗ってあり」と書いていますが,地盛管か漆塗だけかは不明です.断面写真が掲載されていて,それを見ると漆塗りだけの地無し管に見えます.長さを20~20.5インチとしていますが,これは1尺7寸管の長さになります.そして,第4孔が歌口から9.5インチ,裏の第5孔が歌口から8.5インチの位置と書いていますが,計算するとこれは9半割で作成された尺八ということになります.「指孔の半開で,中国式半音音階のどの音もだすことができる」と書かれています.しかし歌口でのメリには言及がありません.

まだ全部を読んでいませんが,私の個人的な印象として,非常に感動的な本です.訳者が,日本美術におけるフェノロサ,建築におけるブルーノ・タウトに匹敵する業績と言っているのも,共感できます.原著も再版されて発行されていますので,早速入手することにしました.

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「邦楽 糸竹の栞」第二号

1915年(大正4年)に発刊された雑誌「邦楽 糸竹の栞」の第二号 (1916年(大正5年)1月発行)を入手しました.荒木古童の「尺八に就て」という記事が掲載されています.

まず,「邦楽」の発刊を祝い,さらに「邦楽も西洋音楽に劣らぬ点(もの)があって,必ずしもピアノとかヴァイオリンとか申さなくとも一種の優美高尚なる固有音楽が存在して居ると云う事が一般に覚知せられたのではありますまいか」と言っています.やはりこの時代にも邦楽が西洋音楽の興隆に押されていたのでしょう.そして「旧套にのみ拘泥せず時世に伴して段々改良を加えて尤もよく人情に合(がっ)しなければならる」と言っていますから,同時代の「人情」には,邦楽でも同時代の音楽が必要と感じていたようです.

外曲の作譜については次のように書かれています.作譜に着手したのは豊田風憬で,風憬の没後は風憬に師事した荒木竹翁が三絃の巨匠長瀬勝男部(かつおべ)に就き,竹翁在世中に140~150曲を作譜した.そして,上原六四郎が「付点法」を案出し,これを風憬・竹翁の譜に適用して,そして現在の譜が完成した.

当時,尺八を習い始める男子は「丁年前後」と書かれています.「丁年」は,20歳,20~60歳,60歳の3種の意味があり得るようですが,当時の平均余命を考えれば20歳のことでしょう.当時は合奏が流行しているので外曲から教えているけれど,「本曲は尺八の基礎でありますから尺八を習得する物は是非一通りは研究致すべきもの」と言っています.「女子に対する音楽は・・・親の躾として箏(そう)なり三絃なりを一通りは心得さして置かなければならぬ事になって」いるが,尺八の方は,「一種の娯楽」として学ばれているので上達が遅い人が多いと嘆いています.

尺八については,竹翁が管の内部の加工と五孔の配置を工夫して,調律することを案出したと書いています.

左が古童,右が竹翁の写真です.

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善養寺氏ミニコンサート

東京・原宿駅の近くにある浮世絵専門の美術館「太田記念美術館」で12月6日に行われたミニコンサート,「浮世絵を聴く vol.3 第1回吹禅の世界~虚無僧尺八」を聴いてきました.尺八の独奏は善養寺惠介氏でした.演奏曲は;

 調・下り葉(さがりは)
 霧海ジ(むかいじ)
 吾妻の曲
 鶴の巣籠(すごもり)

葛飾北斎の「富嶽三十六景 程ケ谷」が最初に紹介され,その中に描かれた虚無僧の説明から虚無僧尺八の紹介が始まりました.

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善養寺氏は,最近はこのような装束はあまり身に付けないのですがと言いながら,白の衣,天蓋,袈裟など,江戸後期の虚無僧一式の姿で登場し,演奏をされました.

聴衆が30人くらいのミニコンサートでした.いつもの善養寺氏の演奏会はマニアックな聴衆が多いのですが,今回は虚無僧尺八を聴くのは初めて・・・どころか,尺八の演奏を直接に聴くのが初めてという人がほとんどでした.

そんなこともあってか今回の善養寺氏の演奏は,そして演奏の合間のお話も,丁寧で明快なものでした.演奏は,演奏者と聴衆で作り上げるものと,改めて感じました.会場がこじんまりとしていたこともあって,善養寺氏の演奏を細部までよく見られ,聴きとられ,感じ取られて,ほのぼのと,とても楽しめました.

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太田記念美術館の浮世絵に描かれた尺八

東京都渋谷区の原宿駅の近くにある「太田記念美術館」は,故太田清藏氏が収集した約12,000点の浮世絵を展示する美術館です.この美術館が2005年に開催した企画展「浮世絵の楽器たち」のカタログを入手しました.この美術館が所蔵する浮世絵の中で,楽器が描かれているものを選んで展示したものでした.三味線や琴が最も多いのですが,尺八が描かれた浮世絵もあります.いくつかの虚無僧の絵が広重の東海道五十三次などに描かれていますが,それは今回の企画展の範囲外.歌舞伎絵のいわゆる伊達虚無僧や,派手な衣装の女性に尺八を持たせて伊達虚無僧に見立てた「見立て絵」が多いようです.浮世絵ではありませんが,北斎漫画に虚無僧が2人,尺八の演奏者が2人,描かれているようです.北斎漫画の虚無僧と尺八演奏者はなぜか全員が後姿です.

大森善清「みだれ藤」(元禄16年:1703):三味線と尺八の合奏
鳥居清倍「七福神の花見」:七福神が楽器をもったり,歌ったり,踊ったり.寿老人が尺八.
鳥文斎栄之「見立五人の茶屋女」:白波五人男or雁金五人男に見立てて.
歌川豊国「初代中村芝のほてい市右衛門」(文政元年:1818):雁金五人男に尺八を持たせて.
歌川豊国「五世松本幸四郎の雷庄九郎」(文政元年:1818):雁金五人男に尺八を持たせて.
歌川豊国「七世市川団十郎のかりがね文七」(文政元年:1818):雁金五人男に尺八を持たせて.
歌川国貞「東海道五十三次之内 白須賀之図」:虚無僧姿,でも女性に見える.
歌川国貞「花誘吉原の夜雨 東八景ノ内 中村歌右衛門」
豊原国周「五世尾上菊五郎の天人吉三」(明治3年:1870):白浪五人男に尺八を持たせて.
豊原国周「七世河原崎権之介の雷神五郎蔵」(明治3年:1870)
豊原国周「六世坂東三津五郎の弁天鐘吉」(明治3年:1870)

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