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太政官布告 普化宗廃止

1871年(明治4年)10月28日付け太政官布告の本文を見つけました.国立公文書館デジタルアーカイブで公開されていました.

普化宗の虚無僧について,仏道修行に勤めることなく,葬祭を執り行うこともなく,法器と唱する尺八を吹奏して物乞いをして世の中を「浮食」するのみと記述しています.虚無僧は普段から傲慢無礼で,遠方まで托鉢をして民衆を苦しめているとも書いています.廃絶の理由として,戸籍もなく,財産もなく,周囲とのかかわりもなく寺に隠れ住むような者は,新しい時代にあってはならないとしています.なお,その時点で,虚無僧寺は全国に約60寺あったものの,虚無僧が住んでいた寺はその半分くらいと言っています.

ところで,翌年1872年(明治5年)9月15日付で修験道廃止の太政官布告が出されていて,これも同じ国立公文書館デジタルアーカイブで読むことができます.こちらも廃止になっていますが,修験道が本寺の関係にあった天台宗,真言宗に戻ることとの布告です.ですから,こちらは宗教的地位を認めた上で,宗教集団の組織問題として扱っているようです.

一方,普化宗の場合は,客観的に見れば政府による典型的な宗教弾圧ですが,明治政府は普化宗を宗教として,また虚無僧を宗教者として認めていません.不思議なことに虚無僧側にも,実に今日まで,この太政官布告を宗教弾圧とみなす見方が全く無いようです.この太政官布告に書かれた状況が,当事者も含めた万人のコンセンサスだったのかと思います.

太政官布告を以下に本文を引用します.

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十月廿八日

布告

普化宗ノ儀自今被癈候條住僧ノ輩民籍ヘ編入シ銘々ノ望ニ任セ地方ノ適宜ヲ以テ授産方可取計事 大蔵

但癈宗ノ寺跡歸俗ノ本人ヨリ相望候ヘハ相當ノ地代ヲ以テ拂下ケ年貢諸役可為相勤事

大蔵省伺
凡(原文は異体字)釋氏ノ教法中世ニ虚無僧ト稱スル普化ノ一宗ハ元来勤懲ノ教化ヲ為ズ又四民ノ葬祭ニ關セス獨有髪ニシテ身ニ袈裟ヲ纏ヒ頭ニ天蓋ヲ戴キ唯宗門ニ寶器ト唱スル尺八ノ一管ヲ吹調シ以テ施物ヲ四方ニ乞碌ス一世ヲ浮食スルノミ其我邦内ヘ弘通ノ遡原ハ建長六年四居士[普化ノ四僧ヲ云]来朝禪師普化ノ法幢ヲ傳ヘ由来歳月ノ久敷盛衰時アリ近クハ慶長ノ頃兵馬戡定ノ際ニ接シ徳川氏ニ於テ一時ノ權道ト相見へ武門落魄ノ士或ハ故アツテ人世ヲ忍フノ徒髪ノ有無ヲ問ス這宗門ニ入リ天蓋ヲ以面容ヲ隠スヘキ宗制ヲ許セシ趣ニ候得共百度維新ノ今日脱籍無産四方無告ノ徒身ヲ宗門ニ忍フヘキ者等ハ人世一人モ無之ハ勿論ニシテ開明ノ御政躰ヨリ論シ候ヘハ尤有害無用ノ一宗者加之其虚無僧ト唱スルモノ従前多クハ品行ヨロシカラサル武士の流族ニ出テ自然平素ノ所業傲慢無禮ニ渉リ僻遠ノ村落托鉢歩行ノ節々良民ヲ苦シメ候趣往々相聞ヘ民風ヲ興起シ王化ヲ宣布スルノ今日ニ臨ミ如此人類ヲ其マゝニ差置レ候テハ必ラス民情ヲ蠧シ風俗ヲ壊リ其害モ不少候間斷然這一宗ヲ癈絶イタシ度尤國内大凡(原文は異体字)六十ケ寺程有之候得共追々無住或ハ歸俗等イタシ即今有住ノ分半ニ過キス候間自今宗号(原文は異体字)癈絶ノ上ハ當住ノ僧徒歸籍歸産ノ方法ハ各地方官ニヲイテ夫々所分イタシ候ハゝ更ニ将来ノ事故決テ有之間敷ト存候依之公布按取調此段相伺申候也 十月 大蔵
伺之通

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