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宮城道夫・吉田晴風(1951)「琴と尺八」 その3(とりあえず終わり)

吉田らの海外への演奏旅行の経験が語られています.

1924年(大正13年)に吉田晴風は本居長世らと米国のハワイとカリフォルニア州に行きました.

1931年(昭和6年)~1932年(昭和7年)には吉田晴風,宮城道夫らが渡米し,ハワイを経由してサンフランシスコ,ロスアンゼルス,シアトル,デンバー,シカゴ,ニューヨーク,ワシントン,ボストンなどの主要都市をほぼ1年かけて演奏旅行しました.

かなり詳しく演奏旅行のエピソードが語られています.そして;

吉田:それぞれに興味をもってくれました.・・・『・・・この純粋の日本芸術は奥床しく優美なものであり・・・』こんな批評が各地の新聞に出,日本音楽を携えてきた甲斐があった・・・」

というように,反日感情がたかまりつつある米国で自分たちの音楽が歓迎されたことを喜んでいます.しかし一方,彼らが米国で音楽上の知識やインスピレーションを得たというようなことは全く語られていません.むしろ,以下に代表されるように,異国の地で自分たちの音楽の良さを再発見したという発言が目立ちます.

吉田はロスアンゼルスで「ブラウというフリュートの大家」から「尺八のいいところは,音色のよさは勿論,音から音へうつるのに非常に滑らかで情味がある―尺八のテクニックの「ナヤシ」のことらしい―そんなところがフリュートには出来ないのだ.フリュートは音域も広く,音階を自由に吹奏出来る特長はあるが,抑揚と滑らかさが足りぬ」と言われました.そこで吉田は「先方はこちらの卑下している所を大いに褒めたたえたのですよ.これは有難いことをきいた.もう尺八は止めまい.半生をかけて吹いて来た尺八だ.日本は日本の特長を発揮して迷わず行くことだ.これからもまだまだ勉強せねばならん,―と決心しました.」と言っています..

また,以下は帰国後の発言です.

吉田:古典は私共の基礎となる大事なものです.そこに立脚して,日本の特色を盛ったもので,而も国境を超越して世界の人にも判るようなものが出来ることが今後の理想と思います.

これによれば,彼らは「古典」は「世界の人」には判らないものと考えていたようにも思われます.

さらに1937年(昭和12年)には吉田晴風が日本舞踊,長唄のグループとシャム(タイ)へ演奏旅行に出かけています.これは前年のシャム(タイ)芸術団の訪日への返礼と位置付けられています.ここでも,相互の演奏披露はあったものの,音楽上の交流はなかったようです.

吉田:タイから日本に来た連中は,東京音頭と鹿児島の小原節を覚えて帰ったんですが(以下略)

という発言もありましたが,日本側がタイの音楽を学んできた気配はありません.一方,吉田は次のように言っています.

吉田:特に私が敬服したのは,シルバコン国立音楽舞踊学校での機構です.自国芸術は厳然と中心の科目であり,洋楽は補助として,研究科目として,如何にして自国音楽に参考とすべきかという態度です.

これは日本の東京芸術大学の状況と比較しているのですが,それはともかくとして,この発言に顕著なように,彼らの音楽活動の流れの目指すところは「洋楽」を基軸として世界の音楽が共通性をもっていくようになるというものだったのかと思います.

この場合に彼らが言う「洋楽」とは何だったかというのを考えると時代の流れについてかなり面白い考察になりそうですが(現在「洋楽」と言われているものとはかなり違うもののはず),それは大きな話なので今夜はしません.おおざっぱなことを言えば,この時代では邦楽,「洋楽」,タイ音楽がそれぞれあまりに違っていて,相互に音楽上の関係をもつことができなかったということでしょうか.

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