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違星北斗「北斗帖」

違星北斗(いぼし ほくと)「北斗帖」(1954年):青空文庫

一連の作品を読むと,著者は北海道にあってヤマト民族とアイヌ民族の接点で揺れながら,ヤマトの側からアイヌ民族・アイヌ文化に肩入れしながら生きたようです.

作品を読む範囲では,作者のまわりに視点を同じくする人は少なかったように感じられます.半世紀前の日本の状況はたしかにそうだったのでしょう.

尺八が出てくるのは下に引用した4つの作品ですが,尺八はヤマト側の文化として作者の手許にあるようです.

[作品引用]=====

平取(びらとり)はアイヌの旧都懐しみ
義経神社で尺八を吹く

尺八で追分節を吹き流し
平取橋の長きを渡る

尺八を吹けばコタンの子供達
珍しそうに聞いて居るなり

尺八で追分吹くや夏の月

=====

私のHPの「近代文学の中の尺八」

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尺八資料」カテゴリの記事

コメント

はじめまして!
違星北斗の研究をしている山本と申します。
「違星北斗」を検索していて、辿り着きました。

>一連の作品を読むと,著者は北海道にあってヤマト民族とアイヌ民族の接点で揺れながら,ヤマトの側からアイヌ民族・アイヌ文化に肩入れしながら生きたようです.

 と書かれていますが、違星北斗自身は余市に生まれたアイヌなんです。

 余市はすでに江戸時代から和人文化が入り込んでいたため、彼の生きた大正期には、もう彼が求めるアイヌの世界は心の中の理想郷の中にしかありませんでした。
 北斗も祖父の代から仏教徒(禅宗)でしたし、尺八は近くのアイヌの古老に習ったようです。それほどに、コタンにおいても和人の文化の中で育ったアイヌだったわけで、だからこそ、羨望したのだと思います。
 知人の記録によれば「江差追分を得意としていた。六段、千島の曲なども吹奏したような記憶がある」とのこと。あまりうまくなかったそうです。

 もし、興味を持たれましたら、私の研究サイトをご覧下さい。

投稿: 山本 | 2008年2月 2日 (土) 21時45分

山本様

ご教示ありがとうございます.

イイカゲンな事を書いていたので冷や汗ものです.幸いそれほど間違った読み方はしていなかったようですが,北斗氏自身がアイヌ民族出身だとすると苦しんだ結果の歌の数々と読み取れます.

特に引用した第一句については,私は和人がアイヌに接触した接点の歌と読みましたが,アイヌが和人側に立ってしまって,そこからまたアイヌに接したという複雑な歌だったのですね.それにしてもアイヌの旧都に「義経神社」ですか....

なお,歴史的に見れば尺八は必ずしも和人の伝統音楽を代表する楽器ではないと私は思うのですが,それが明治以降にいつの間にか日本文化の特徴的な楽器のようにになってしまって,そして北斗氏の歌のなかで和人文化を示す道具立てに使われていることに,別の意味で複雑な思いです.

ところで,私はかつて南方にいたので「ヤマト」と書きましたが,北から見ると「和人」なのですね.

投稿: Yatou | 2008年2月 3日 (日) 00時35分

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