伊庭孝(1928)「日本音樂概論」

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伊庭孝「日本音樂概論」
1928年(昭和3年)9月24日 厚生閣書店

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尺八に関する記述は以下のとおりです.

第二篇 日本音樂の樂器及び樂器法   163頁
ここでは古代尺八,一節切,洞■[しょう],莫目(まくも)の説明に続いて,以下のように「現代の尺八」が説明されています.

  第四章 現代の尺八   226頁

    その傳來
現代の尺八と虚無僧の起原については「虚鐸傳記」を引用していますが,これは「史實としては信憑するに足りない」(237頁)としています.虚無僧以外の市民が尺八を吹奏することが禁じられたことについて慶長9年の家康公御定と弘化4年に虚無僧本寺に与えられた附紙の記述を引用しています.

明治期の普化宗・虚無僧の流れについては,以下のように記載しています.

明治四年に新政府は普化宗を廢止したので、・・・一月寺の最後の住職たりし霄海蚊龍和尚は、寺の楽師だつた荒木古童に後事を托し、本尊も寺什も悉く之に委ねてしまつた。

[琴古流は]徳川時代に一月寺の楽師であつた黒浬琴古の流を指していふのであるが、二世琴古の門から派生した一閑流の如童の門人の古童といふものが、再ぴ宗家に歸參して風憬と名乗つた。その門人の荒木梅旭が山藍の譽があつて師の奮名古童を襲ひ、新しい指法を發見し、製管に新紀元をひらいた上に、尺八譜をよく制定した。後に竹翁となり、明治四十一年に残した。


    聲調と音符
著者は基本的に日本伝統楽器の音階を西洋音階に位置付けて説明し,尺八については以下の表を示しています.特にメリとカリについては次の説明を付しています.

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ただカリといふ時は自然音を指し、事實上一律嬰となる場合は特に大カリと稱してゐる。 メリには普通のメリ(二律變)中メリ(一律變)一大メリ(二律變)の區別がある。大メリとメリとは、音符としては同じ二律の變律であるが、大メリは全く唇の方法だけによるもので、筒音に限り用ゐられる。中メリの方は指法と唇法と兩者の技巧を用ゐるので、開孔音に用ゐられるのである。


    音質及効用
尺八曲の起源について以下のように記述しています.

寄竹の當時に、彼が夢の霊威によつて、二曲を傳授せられ、一を霧海■[ジ]、一を虚空■[ジ]、と稱して之を後身に傳へたと傳せられてゐる(虚鐸傳記)。普化宗雑記によると、弘化四年の記録に、普化宗に於ては虚空鈴慕、無碑■[ジ]鈴慕・眞の虚實の三曲を「古来ヨリ吹候儀ニ御座候」とあり、尚その後に三十三曲の俗曲といふものがあつて、其等は三味線との合奏曲であるので、「何レモ遊戯ノ筋ト相聞、普化ノ吹笛ハ三曲ニテ事足リ可申」として邪道なりとせられてゐる。是等はいづれの時から吹き習はされたものであるか、「外三十三曲ハ遊戯ノ様ニ御座候。併百年餘ニモ可相成哉、何頃ョリ追々出來候哉舊記等二モ無御座候」とある。


    拍子法
琴古流は上原六四郎氏の創案にかかる拍節記載法 」を用いていると説明しています.


    合奏の調率に就て

琴三味線と合奏の場合は、本調子・二上り・三下りの場合は、ロ音に第一絃を合はせる。

一下りの場合は第一絃をリ音に合はせるのである。



    近來の傾向

当時の尺八の情勢また将来展望について,以下のように記述しています.

尺八は近來になつて頓にその効果を認められ・・・[中略]...将來に於て、 日本樂器中では最も發展する可能性のあるものである

[尺八は]奏者の耳によつて調整しながら音を發する爲め、樂譜の正確な再現が困難である爲にその發展の前途を阻害せられてゐる。その音色及び柔軟性に於ては、西洋樂器に類のないもので、東洋樂器中、誇るに足る可きもののーである。


日本音樂概論 附録 925頁

〔九〕 尺八の特殊合奏調率法 945 頁

この部分は私には十分理解ができていないのですが,記述の要点は以下のとおりです.

尺八は六本調子であり・・・[以下略]
近來尺八をもつて新しい聲樂曲の件奏に當つたりする場合」について「町田博三氏にお尋ねした

以下,町田氏の説明が引用されています.

近頃の尺八家は大概一尺八寸管と併せて一尺六寸管は所持してゐますが,これも宮城さんの「秋の調」が一般的に吹奏されるやうになつてからの事ださうです。

最近では一尺八寸管を用ゐ六本以下の調子に合せる爲めに三絃(箏)のーにハ (琴古のリ)を合はせ尺八の方を移調して二律低く吹く方法を私達はとつでゐます。

この外に目下用ゐられてゐるのはチを一絃に合はす(本調子三下り旋法の時)のと、レを一絃に合はすのとが行はれます。

 

 

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田辺尚雄(1926)「音楽叢書 第11編 日本音楽の研究」

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田辺尚雄「音楽叢書 第11編 日本音楽の研究」
1926年(大正15年)2月21日 京文社


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第七章 國民樂の爛熟   362頁
本章で扱う音楽は江戸時代に盛んになったものが多いが,江戸時代を中心とする音楽については同著者の別書「近世日本音樂講話」に詳説したとのことです.

  三〇 尺八の傳來と尺八樂
この節の前半は雅楽尺八を説明しています.鎌倉時代の中頃に普化宗の僧覺心が宋から尺八を伝え、覺心はこの尺八を用いて普化宗を広め,足利の時代になってこの尺八が管が太くなり,また歌口の形も変化して現在の尺八の形になったとしています.また覺心が宋から普化宗尺八本曲の古伝三曲(おそらく三虚鈴のこと)を日本に伝えたと言います.

江戸時代に黒沢幸八(琴古)が琴古流を開き,本曲三十六曲を完成させたとしています.明治維新後に尺八は一時衰退するものの,東京で吉田一調及び荒木古童(後の竹翁),京都・大阪で長崎出身の近藤宗悦などの努力により,外曲などの普及とともに尺八が隆盛となったと説明します.また中尾都山が都山流を開き,関西から全国に広めたことにも言及しています.


第八章 日本の樂譜
世界の楽譜を以下のように分類し,尺八譜はこの中の(二)に属すとしています.

  (一)特殊な歌ひ方の約束を記す法。
  (二)特殊な楽器の用法を書き表はす法(即ちタブレチュアー)。
  (三)音自身を書き表はす法。
  (イ)馨の抑揚丈けを表はす法。
  (ロ)音の高低丈けを表はす法。
    (a)記號を用ひる法。
    (b)文字を用ひる法。
  (ハ)音の凡ての性貿と表はす法。
    (a)本譜譜-西洋の音符法。
    (b)略譜-西洋のドレミ法、1 2 3法。


  [三八] 特殊な樂器の用法を書き表はす法
    (八)尺八の譜 
 
 444頁
  様々な記譜法が考案されているものの,従来の方法は「ロツレチリヒ等の文字を記し」,これに「唇の特殊な用ひ方や手指の使ひ方等をも記號として加へて記」すものと説明しています.尺八譜の例として「追分節の前唄」の一節が示されています.

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今年の積雪

今年は大雪を経験しました.

私の自宅の気象は新潟県高田AMEDASとほぼ同じで,積雪はそれより若干多い印象です.高田AMEDASによれば1月11日に249cmの積雪を記録しました.しかもその前2日間に170cm超の降雪がありました.ある程度の積雪には慣れていて,それなりの対処ができるつもりでしたが,さすがに今年は困って,ご近所の助けを借りることになりました.

しかし,奇妙なことに今年は暖冬傾向でした.大雪前の1月上旬までは平年値以下の気温でしたが,大雪以降は平年を上回る気温が続きました.このため積雪はよく溶けたのですが,それでもそれを上回る降雪でした.

家の周囲,道の両側には3mを超える雪の山ができ,大雪の1週間ほどは車が使えませんでした.

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文部省宗教局編(1925)「宗教制度調査資料 第16輯 江戸時代宗教法令集」

文部省宗教局編「宗教制度調査資料

 第16輯 江戸時代宗教法令集」

1925年(大正14年)3月31日 文部省宗教局


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江戸時代の虚無僧関係の文書が掲載されています.私は江戸時代の文章を正確に読めないので,以下は要点のみです.

九九 虚無僧覚  117頁
  延寶五年(1677年)十二月十八日
  太田摂津守・板倉石見守・小笠原山城守が発出した虚無僧諸派本寺・末寺宛の文書
    ・本寺の住職を選任する手続き
    ・弟子契約を結ぶ際の手続き
    ・弟子が宗の法令に背いた場合の措置


一六五 虚無僧使用深編笠ニ付触書   185頁
  寶暦八年(1758年)十月の文書 
    一月寺,鈴法寺の虚無僧は深編笠を着用する他に,合印も持参するようにとの指示.


一六六 虚無僧取扱ニ付内達  185頁
  寶暦九年(1759年)閏七月の文書 
    虚無僧姿の偽虚無僧の存在について一月寺,鈴法寺にその対応を求めた.


一六七 虚無僧本則付與之定  186頁
  寶暦九年(1759年) 
    一月寺,鈴法寺の回答


一七八 不法之虚無僧取計方触書  194頁
  安永三年(1774年)正月廿三日 加納遠江守から建部六右衛門に渡された文書
    虚無僧修行の姿をしながら各地で狼藉を行う者がいるので,その者への対応の指示.


二一九 虚無僧取締ニ付触書  234頁
  弘化四年(1847年)十二月二十六日
    安永三年の触書にもかかわらず虚無僧姿で狼藉を行う者が後を絶たないので,そのような者への対応の指示.

 

 

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鈴木皷村(1913)「日本音樂の話」

鈴木皷村「日本音樂の話」

1913年(大正2年)7月12日 画報社

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緒言として書かれている文章の要旨は以下のとおりです.

この諸邦樂も、現代との距離の遠近の度によつては、普く世人に知られないものも多く・・・

邦樂の範囲は斯許り狭いものでもなく・・・世界のいづれの邦に比するも、敢て遜色のない程の長さと光彩とを有するのである。

我民族は、巧みに異邦の學藝技術を収得して、よくこれを國土化せしむるの力を有って居・・・る

斯う云ふ過去と伎倆とを有して居る吾々民族は、またまさに将来に於ても、果して何等かを造り上げなければ止まないことは無論である。



以下,本文です.

第四、歐洲樂輸入時代 : 明治三十年後について記述していて,この中で以下のように当時の尺八の状況が少し言及されています.

この期に入りて名を成した邦樂家にては・・・尺八の樋口孝道(京都)中尾都山、(大阪)河瀬順輔、槍田倉之助、(東京)四氏・・・等の諸氏であるが、同時に前期からこの期に亘つての諸妙人のうち・・・尺八には荒木古童・・・等を失つた。
 

現存諸樂畧解 :楽器ごとの説明です.尺八の説明の要点は以下のとおりです.

第二十五、 尺八

平城天皇、大同四年の官符に、當時諸樂師の中に「尺入」の職員・・・雅樂管楽器の一科としてである。

「一切節」と「尺入」とは同じもの・・・

源氏物語、末摘花・・・この中のさくはちの笛とは、即ち一切節・・・

一切節の説明は省略します.

徳川期の寶暦、明和の頃再興せられ、文化に至つて一思庵なる妙人が出て、其後また漸々衰ヘ、一方更に變形した即ち現今の尺入を出し、明治に至つて故荒木古童氏及び其門弟故福城可童氏の如き名手を輩出した爲め、非常な普及を遂げて現代に及んだ・・・

我邦に於ける傳統」として絲竹古今集の記述を引用しています.

傍廂前篇尺笛の篠」の中で「尺八笛は、長さ一尺八分・・・後々は吹くことはさし置き、いさかひの爲め便利にせんと、一尺八寸にして節を數多にして、竹の根ぎはを切りて一刀のかはりとす」の記述を引用しています.

虚無僧については慶長十九年の徳川幕府の掟書を引用しています.

尺八の現状については「而して本曲の現今に傳はるもの凡二十八九曲、それさへ右規を守るものはないので、獨り京都の樋口孝道氏位を數ふのみだ。現時隆盛を極めつつあるは、悉く琴古流ど稱し、箏曲樂等の各流派に合奏のもののみである。

目下尺八を以て世に稱せられて居る人には、京都の樋口孝道氏(普化流)大阪の中尾都山氏(都山流創始者)東京の二代目荒木古童氏(以下琴古流)初代の高足河瀬順輔、三浦琴童、の二氏及び、槍田倉之助、雅樂家多ノ忠告の二氏である。

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