国立公文書館デジタルアーカイブ

国立公文書館デジタルアーカイブの「公文書」と「内閣文庫」について,キーワード「虚無僧」と「普化宗」で検索したところ,以下の31文書が見つかりました.

普化宗・虚無僧関係で残っている文書は少ないと思っていましたが,一部は断片的なものながら,予想以上に残っているようです.(もちろん,各地にはさらに多く残っています.)

これらは国立公文書館で公開されている他,一部はネット上でも公開されています.

興味はありますが解読するのは私の役目じゃないだろうなと思います.素人には解読はトッテモ大変そうですし・・・ただ,これらを解読して記録を積み上げてこそ,思い込みではない,史実の歴史が明らかになります.

ところで,文書の表題だけを見ていると,明治四年の太政官布告以前に,すでに明治二年から普化宗廃止が論議されているようです.

【虚無僧】

太政類典
 長崎県葬式及虚無僧等ノ処分:慶応三年~明治四年
 長崎県盲僧検校勾当虚無僧等ヲ農商ヘ帰セント乞フ::慶応三年~明治四年
 苗木藩虚無僧処分法::慶応三年~明治四年

太政類典草稿
 長崎県葬式及虚無僧等ノ処分:慶応三年~明治四年

公文録
 葬式及虚無僧等ノ儀ニ付伺:明治元年

大政紀要
 虚無僧式目
 虚無僧法式
 虚無僧ノ弊ヲ正ス

大蔵省焼残文書
 因伯虚無僧人別:明治二年~明治四年

教令類纂
 虚無僧御条目:慶長19年01月~延宝05年12月

視聴草
 虚無僧御条目
 虚無僧本則

落葉集
 虚無僧所持之往来:享保06年04月

虚鐸伝記

祠曹雑識
 虚無僧派別
 虚無僧ト普化僧
 虚無僧女犯仕置:寛政05年
 虚無僧触頭書上:寛政04年
 虚無僧等寺社奉行所取扱旧格

【普化宗】

太政類典
 新発田藩管内普化宗廃寺処分:慶応三年~明治四年
 飫肥藩管内普化宗僧侶ノ托鉢ヲ停メント乞フ:慶応三年~明治四年
 普化宗廃止:明治四年~明治十年

太政類典草稿
 新発田藩管内普化宗廃寺処分:・慶応三年~明治四年
 僧尼 飫肥藩管内普化宗僧侶ノ托鉢ヲ停メント乞フ:・慶応三年~明治四年

公文録
 普化宗僧侶管内順行差留ノ儀伺:明治二年
 管内普化宗無之届:明治二年
 集験并普化宗無之届:明治二年
 普化宗明暗寺廃絶ノ儀伺:明治二年
 普化宗門廃絶ノ儀伺:明治四年

大政紀要
 普化宗法規
 普化宗ヲ廃ス

布令便覧
 普化宗ヲ廃シ住僧ハ民籍ヘ編入

文部省大臣官房総務課記録班分類文書
 東京 十六、普化宗:昭和二十一年~昭和二十六年
 千葉 四、孝道普化宗:昭和二十一年~昭和二十六年

普化宗御条目:和書(文鳳堂雑纂)
普化宗之祀:和書(文鳳堂雑纂)
普化宗門掟書:和書(文鳳堂雑纂)
家康公普化宗門御掟:和書(文鳳堂雑纂)
普化宗門寺十六派:和書(蠧余一得)
普化宗一月寺鈴法寺申渡:和書(蠧余一得)
普化宗罷越候節天蓋為取候問答:和書(弘化雑記)

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与謝野晶子(1916)「新訳徒然草」

私のHPの明治大正時代文献に与謝野晶子(1916)「新訳徒然草」を追加しました.

与謝野訳では,「世を捨てたやうであつて、そして我執の塊のやうなものであ」り,「佛道の人のやうであつて、そして争闘するのを仕事のやうにして居る手合ひである」梵論僧の会話としては言葉遣いが丁寧すぎて,少々,情景が違うのではないかと思います.「死を輕く見て少しも拘泥しない所が潔く感じられる」ところから,梵論僧の会話を武士風の会話にしたのかとも思われますが,状況からすれば無理があると思います.

徒然草の原文はこちら

出典:国立国会図書館 近代デジタルライブラリー
(与謝野晶子作品は著作権保護期間満了)

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太政官布告 普化宗廃止

1871年(明治4年)10月28日付け太政官布告の本文を見つけました.国立公文書館デジタルアーカイブで公開されていました.

普化宗の虚無僧について,仏道修行に勤めることなく,葬祭を執り行うこともなく,法器と唱する尺八を吹奏して物乞いをして世の中を「浮食」するのみと記述しています.虚無僧は普段から傲慢無礼で,遠方まで托鉢をして民衆を苦しめているとも書いています.廃絶の理由として,戸籍もなく,財産もなく,周囲とのかかわりもなく寺に隠れ住むような者は,新しい時代にあってはならないとしています.なお,その時点で,虚無僧寺は全国に約60寺あったものの,虚無僧が住んでいた寺はその半分くらいと言っています.

ところで,翌年1872年(明治5年)9月15日付で修験道廃止の太政官布告が出されていて,これも同じ国立公文書館デジタルアーカイブで読むことができます.こちらも廃止になっていますが,修験道が本寺の関係にあった天台宗,真言宗に戻ることとの布告です.ですから,こちらは宗教的地位を認めた上で,宗教集団の組織問題として扱っているようです.

一方,普化宗の場合は,客観的に見れば政府による典型的な宗教弾圧ですが,明治政府は普化宗を宗教として,また虚無僧を宗教者として認めていません.不思議なことに虚無僧側にも,実に今日まで,この太政官布告を宗教弾圧とみなす見方が全く無いようです.この太政官布告に書かれた状況が,当事者も含めた万人のコンセンサスだったのかと思います.

太政官布告を以下に本文を引用します.

=====
十月廿八日

布告

普化宗ノ儀自今被癈候條住僧ノ輩民籍ヘ編入シ銘々ノ望ニ任セ地方ノ適宜ヲ以テ授産方可取計事 大蔵

但癈宗ノ寺跡歸俗ノ本人ヨリ相望候ヘハ相當ノ地代ヲ以テ拂下ケ年貢諸役可為相勤事

大蔵省伺
凡(原文は異体字)釋氏ノ教法中世ニ虚無僧ト稱スル普化ノ一宗ハ元来勤懲ノ教化ヲ為ズ又四民ノ葬祭ニ關セス獨有髪ニシテ身ニ袈裟ヲ纏ヒ頭ニ天蓋ヲ戴キ唯宗門ニ寶器ト唱スル尺八ノ一管ヲ吹調シ以テ施物ヲ四方ニ乞碌ス一世ヲ浮食スルノミ其我邦内ヘ弘通ノ遡原ハ建長六年四居士[普化ノ四僧ヲ云]来朝禪師普化ノ法幢ヲ傳ヘ由来歳月ノ久敷盛衰時アリ近クハ慶長ノ頃兵馬戡定ノ際ニ接シ徳川氏ニ於テ一時ノ權道ト相見へ武門落魄ノ士或ハ故アツテ人世ヲ忍フノ徒髪ノ有無ヲ問ス這宗門ニ入リ天蓋ヲ以面容ヲ隠スヘキ宗制ヲ許セシ趣ニ候得共百度維新ノ今日脱籍無産四方無告ノ徒身ヲ宗門ニ忍フヘキ者等ハ人世一人モ無之ハ勿論ニシテ開明ノ御政躰ヨリ論シ候ヘハ尤有害無用ノ一宗者加之其虚無僧ト唱スルモノ従前多クハ品行ヨロシカラサル武士の流族ニ出テ自然平素ノ所業傲慢無禮ニ渉リ僻遠ノ村落托鉢歩行ノ節々良民ヲ苦シメ候趣往々相聞ヘ民風ヲ興起シ王化ヲ宣布スルノ今日ニ臨ミ如此人類ヲ其マゝニ差置レ候テハ必ラス民情ヲ蠧シ風俗ヲ壊リ其害モ不少候間斷然這一宗ヲ癈絶イタシ度尤國内大凡(原文は異体字)六十ケ寺程有之候得共追々無住或ハ歸俗等イタシ即今有住ノ分半ニ過キス候間自今宗号(原文は異体字)癈絶ノ上ハ當住ノ僧徒歸籍歸産ノ方法ハ各地方官ニヲイテ夫々所分イタシ候ハゝ更ニ将来ノ事故決テ有之間敷ト存候依之公布按取調此段相伺申候也 十月 大蔵
伺之通

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種田山頭火「行乞記」

青空文庫の種田山頭火の「行乞記 大田から下関」の1933年9月9日の作句に「虚無僧」を見つけましたので,追加しました.女の子を連れた虚無僧.山頭火が旅で出会って行乞記に記録した「虚無僧」は,「虚無僧」であって「僧」ではない.生活のための「托鉢」であれば,如何にも「虚無僧」らしいとも言えるのでしょうか.

1933年9月9日 山口県嘉川か?
滞在中に養鶏場を訪問した後の作句のひとつ
  秋らしい村へ虚無僧が女の子を連れて

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石川雲蝶

やっと天気が良くなったので,新潟県の中央部の山沿いの魚沼市にある西福寺と永林寺を参拝してきました.というのは,この両寺には江戸末期の彫工石川雲蝶の多数の彫刻があるからです.

石川雲蝶(1814年-1883年)という彫工を知る人は少ないと思いますが,とんでもない人物です.写真をみていただければその一端がわかってもらえると思います.左から西福寺開山堂,その正面上の彫刻の一部,開山堂内部の彫刻群(同寺のパンフレットからコピーしました,お許しを).開山堂内部の釣天井はすべて極彩色の立体彫刻です.細部まで彫り込み,複雑に入り組んだ彫刻,その激しい造形に圧倒されました.

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西福寺のHP

永林寺のHP

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北海道大学キャンパスにて

尺八とは関係ありませんが・・・

札幌に出張でした.北海道大学のキャンパスに行きましたが,想像をはるかに超えた美しいキャンパスで驚きました(たしか2回目のはずですがかなり以前の前回を全く覚えていません).キャンパス内に巨木の林があり,芝生の広場があり,川(ただし半人工とか)があり,原生林(に戻そうとしている林)があり,開拓時代の文化財(または文化財級)の建物が多数ありと,とても国内の大学とは思えません.あまりに感動しましたので,また最近は尺八の練習不足なので,このblogの趣旨には反しますが北大キャンパスの写真を掲載します.「こんな美しい大学で学んだら人生が違ったかなァ」と思わすつぶやいたところ,「お前は季節が一番良いときに来たからそう言うのだ.2か月後に来たらそんなことは言わないはずだ」と,北大出身者に笑われました.

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少しだけ尺八;

平取町のパンフを入手してきました.以前,違星北斗(いぼし ほくと)の作品でこの町の名前を記憶していました.

  平取(びらとり)はアイヌの旧都懐しみ
  義経神社で尺八を吹く

  尺八で追分節を吹き流し
  平取橋の長きを渡る

以前にも書きましたが,この和歌を私は複雑な思で読んでいます.

義経神社は寛政11年ころに作られ,それ以来住民から大切にされていて,毎年例大祭がもたれているそうです.またこの町は有名なアイヌ民族の聖地「二風谷」がある町でした.

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上越フルートまつり

第3回上越フルートまつり(9月21日)を聴いてきました.知り合いが参加している趣味のグループがこの祭典の中核団体だったので,誘われました.13:30~17:30という主催者も思わず苦笑いするマラソンコンサートでした.

主催者グループの代表の知己ということで,工藤重典氏の友情出演がありました.世界的に活躍しているフルーティストの出演とのことですが,門外漢の私には有難味がわかりません.

工藤氏がすごく上手なのか,またはものすごく上手なのか私には判りませんでしたが,実は,この4時間のマラソンコンサートのうち3時間以上の演奏に工藤氏はソリストとして参加していて,その意味ではトッププロの凄さに圧倒されました.

工藤氏の演奏を聴いていて,工藤氏のフルートの音色が際立っていることに気がつきました.楽器のせいもあるのでしょうが,それだけではないでしょう.他のセミプロ・アマチュアの音色も一人ひとり異なっていたようです.フルートですらこのようであれば,尺八の音色が演奏者によって異なるのもある程度はやむをえないのかもしれません.もっとも尺八の場合は目指す音色も人それぞれ異なるのかもしれませんが.

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茨木市の「ぼろ塚」

大阪府茨木市南清水町にある「ぼろ塚」を見て来ました.

吉田兼好の「徒然草」115段の「梵論の復讐」で「しら梵字」と「いろおし」という二人のぼろが果たし合いをしたという宿河原という場所がこの場所と言われています.

京都から大阪市街を北に外れて山陽道につながる脇街道として西国街道があり,この街道は西国大名の参勤交代に利用され,現在の茨木市の付近は京都と大阪の中間地点にあたり,郡山宿本陣として栄えたそうです.その本陣の西隣に現在の宿河原町があります.宿河原町の西に南清水町があり宿河原町との境に勝尾寺川が流れています.この勝尾寺川はいくつか名前を変えて最後は大阪市街地で中島川となり大阪湾に注ぎます.西国街道が勝尾寺川を跨ぐ場所の川沿いにこのぼろ塚があります.

果たしてこの場所が徒然草の現場かどうかよくわかりませんが,道具立ては揃っています.

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尺八池(京都市)

以前にこのblogでその存在を紹介した京都市の「尺八池」に行ってきました.

京都の市街地西北の大徳寺から少し先にいった山の端にありました.もともとは農業用水の貯池として造られたもののように見受けられました.現在はこの下流に水田はほとんど残ってはいません.ネット上で調べるとこの池はかなり古いもののようですが,なぜこの池が「尺八池」という名前になっているのかは判りません.下流側の堰の上,池への入り口付近には小さな石碑がありました.私が訪問した時は土砂降りの雨だったので石碑の解読は諦めました.ネット上では解読されていますので,探してみてください.

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尺八池の畔に「尺八池開運松龍辨財天」という,なんともありがたいお名前の小さな祠がありました.弁財天は一般に技芸の仏様として信仰を集めていますので,いやしくも尺八を志す者はお参りするのが良い・・・かな?

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弁財天はインド土着の神様集団の出身で,はやくから仏教活動に参加し,中国での活動を経て日本に渡ってきました.約700年前の室町時代に結成された異分野融合開運活動グループ「七福神」に仏教側を代表して紅一点(注)の琵琶・ボーカルの音楽担当として参加しました.その後現在までグループ活動の傍らソロ活動も続けています.ということで,ここ「尺八池開運松龍辨財天」では祠におられますが,上越市高田の天林寺では仏教を代表して琵琶を抱かれた御本尊として座しておられ,高田瞽女の信仰を集めています.

注:もともとは性別を超越した存在でしたが,中国を経て日本に帰化するまでに女性として活動を始めたようです.

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「尺八小史」・「正則尺八吹奏講義録」

国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに尺八関連の本として以下の2冊を新たに見つけて,ダウンロードしました.

 市村富久「尺八小史」1919年(大正8年)一成舎
 東京尺八研究会「正則尺八吹奏講義録」1921年(大正10)東京尺八研究会出版部

「尺八小史」は私家本らしくて,著者が尺八の歴史を調べた知識を書き下ろした小冊子のようです.

「正則尺八吹奏講義録」は,尺八の演奏法を体系的に説明したものですが,演奏技術を言葉で説明するのはやはり少々無理があります.誰かの寄贈本のようで,最終ページに書き込みがあり,曰く「此の書より 吉田晴風の本がずうとよい 大正のは古いぞ 今は昭和だ!!」.当時の熱気が伝わるようです.

この本に以下の記述がありました.
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尺八とヴァイオリンの合奏
洋楽器にもいろいろありますが尺八によく合ふのはヴァイオリンであります,それで,合奏しようとする時には,尺八の甲音のレにヴァイオリンの細い糸Eを合せ,尺八のリに絲のAを合せるのでありまして(以下略)
=====

バイオリンと尺八が良く合うかどうか別として,尺八のレ→E,リ→Aとは?

ページを戻ると以下の記述がありました.
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尺八の種類
(前略)まづ一尺八寸のものが標準とされています.(略)合奏する時には,一尺七寸の物は端唄に用い,一尺八寸は琴に,一尺九寸は長唄又はヴァイオリン,ずっと長い二尺といふのは義太夫といふことになるので,洋樂との合奏には一尺九寸から二尺を用います.(以下略)
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1尺九寸がなぜヴァイオリンに合うのかよくわかりませんが,前述のリ→Aなら,二尺1寸管ではないでしょうか?

そういえば,先日このblogに以下のように藤田鈴朗(俊一)(1919,1929)「趣味研究 改訂 尺八通解」を引用しました.
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2.バイオリンと合奏
音合わせの方法として;
 尺八の「レ」を,バイオリンの「ミ(E)」 (←「ソ(G)」ではないの?)
 尺八の「り」を,バイオリンの「ラ(A)」 (←「ド(C)」ではないの?)
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この本にはさらに五線譜に尺八の音名が書きこまれていて,それによれはロはシ(B)になっていますから二尺1寸管のはずです.こちらの本では合奏用の尺八の長さは書かれていません.

当時と今のバイオリンの律が多少違うにしても,これは違いすぎ.リの音にバイオリンのAを合せる(両書にはそう書いてある)のではなく,実際は,バイオリンのAに尺八のリの音が合うような長さの尺八を,バイオリンと尺八の合奏に用いた・・・ということでしょうか? でも,なぜ?

ちなみに「書込みさん」が言っている吉田晴風が書いた本(前田佳風と共著)「尺八の楽理と実際」(1939)では,尺八のロはD(レ)となっています.

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