Snow for christmas eve

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今年は平年より気温の高い日が続いています.今日が今シーズンの初積雪で,20㎝くらいです.

10cmの積雪で道路には除雪車が来るはずなのですが,初積雪で手順が悪いのか,初積雪の20㎝で切迫感がないのか,近くで除雪作業が行われている気配がしません.

我が家の犬も大喜びで散歩しました.最初は雪の中に突っ込んでもがいていましたが,そのうちに車の轍が歩きやすいと気づいたようです.帰宅後に体から雪を洗い落とすのが大変.

さて,今冬の越後・妻有のオーストラリア・ハウスでは,オーストラリア・ハウスでは初めての冬のArtist-in-residence(滞在型芸術作成)が行われるとのことです.その地は,3mの積雪地です.私としてはそんな雪の中で錦風流根笹派の曲を吹いてみたいという気持ちもあります.

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木村富子「随筆 浅草富士」

国立国会図書館で公開されている文献です.

木村富子(1943)「随筆 浅草富士」双雅房  (著作権保護期間満了)

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著者(1890~1944)は劇作家で,この本では幼少時代から昭和初期頃までの著者の身の回りの出来事や著者が見聞きしたことが随筆として書かれています.この本には当時の風俗が活き活きと描写されています.時代の記録としても貴重だと思います.

著者の母方の祖父は荒木竹翁(1823~1908),当時の古童の家は元は柳橋にあり,その後「今戸八幡の向ひ側,小松宮様のお邸近くに移り住んだ.」と書かれている.また著者の叔父は二代目荒木古童(1879~1935) [「三代目」or「三世」の間違いでは?]

竹翁について,以下のふたつの随筆に書かれています.

「花火と尺八」

竹翁のところには尺八と習いに「お供を連れた舊お大名のお弟子方がいかめしい袴形で見えたりした」し,「本郷の越中樣もいらした」,また「實業家では大倉喜七郎氏なども交つて居た」.その稽古で「鹿の遠音や鶴の巣ごもりの情趣深いものから、吟龍虚空などの豪壮な竹の音色が、嚠喨(りゅうりょう)として隅田川へひゞきわた」っていたといいます.竹翁の妻については「背丈のすらりと美しい祖母は、琴よくした」と,書かれています.

竹翁の自宅の「細工場」では「 長い眉毛に白い顎髯、菊畑の鬼一法眼がかけるやうな大きな眼鏡をかけた祖父は、面つくり師伊豆の夜叉王といふ扮装で、四畳半ほどの部屋いつぱいに竹屑を散らかして、鑿や剃刀も危なげな手もとながら、一心を打ちこめては尺八を作るのであつた」,そして著者(孫)が竹翁の傍で眺めていると,「疲れる頃には一本のせた蝶足のお膳が運ばれる。それが何よりの楽しみで、孫のお酌でチビリと餘念もない」.「かうして彫り上つたものへ、調子を入れながら、幾度となく自分で漆の中塗をする。上塗りの方は薬研堀の「たいしん」とやら言つた塗師家へ廻すが、見事に蒔絵が出来上つて來ると、長押へ掛けた鹿の角へ、一管づつ刀かけのやうに並べのせ、それ\/に、變幻百出、空山雷、さをしかなどと銘がつけられた。

なお,私の近所(新潟県上越市)の前島密生地にある前島密博物館には竹翁作の尺八と折本の譜本があります.譜本は非常に丁寧にかかれたもので,すぐにでも演奏できそうなくらいです.尺八は携帯用か3つ折りのものもあり,蒔絵も描かれています.


「鶴の巣ごもり」

当時の神田三崎町にあった東京座での忠臣蔵の早春の頃の興業の話です.

七段目の茶屋場がしまつて山科へかゝると、雪おろしの太鼓の音が又しんみりと心をそゝる」,その時に「垣の外で吹く尺八の一曲・・・・・赤地に金の紋付を着た芝翫(しがん)(故人歌右衛門)の戸無瀨が」,娘に「あれを聞きや。表に虚無僧の尺八。ありや、鶴の巣ごもり」と言います.「床では太夫が―――鳥類でさへ子を思ふ―――と語る。聴かせどころ見せどころであるが、観客は知らず・・・初日には私の祖父の荒木竹翁が無理やりに望まれて一生に一度、芝居の舞臺裏で本格の鶴の巣籠りを吹奏した。尺八はもとより三次袋や天蓋の扱ひ方まで、虚無僧のやかましい作法を委しく言葉で教へられたのみでは納まらないほど、藝熱心な澤瀉屋から禮をつくして頼まれたからで・・・・・。」「ところが、鶴の巣籠りは芽出たい曲で、上品でありながら陽氣な二上り調子の氣分のものである。親鶴が子鶴をいつくしむ母性愛に、人間と鳥類との變りは無いが、九段目の場合は悲劇であるから、どうもピツタリ來ないらしい。二日目から調子をいくらか加減して門下の某がつとめる事にしたといふ」.


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文部省社会教育局(1942)「文部省推薦紹介蓄音機レコード目録」

国会図書館で公開されている文献です.(著作権保護期間終了)

文部省社会教育局(1942)「文部省推薦紹介蓄音機レコード目録」文部省社会教育局 (昭和17年)

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1936年(昭和11年)の同書が「利用上の資料たらしめんとするもの」だったのに対し,こちらは下記引用のとおり,「優良なるレコードの選奨を行ひ之が普及を圖らむと」するものですから,より政府の関与が強まっているようです.しかし,掲載されているレコードの数は激減しています.

蓄音機レコード選奨要綱
文部省に於ては健全なる音樂の普及に資する爲左記要綱に依りて優良なるレコードの選奨を行ひ之が普及を圖らむとす。

(一)紹介
紹介は左の各項の一に該當するレコードにして健全なる音樂の普及に資するものありと認むるものに付之を行ふ。
 (イ)現代邦人の作曲又は編曲に係る聲樂曲又は器樂曲
 (ロ)現代邦人の演奏に係る古典音樂
 (ハ)外國人の作曲又は編曲に係るものにして邦人又は外國人の演奏したるもの
(二)推薦

  [略]
(三)文部大臣賞の交付
  [略]

このうち,「(一)紹介,(ロ)現代邦人の演奏に係る古典音樂」のなかには地唄・箏曲 が4,尺八古典本曲が4,民謡が2含まれています.かなりバランスの悪い「選奨」ですが,尺八古典本曲の異常な重視にはどういう意図があったのでしょうか?

尺八古典本曲4盤は;
 浦本浙潮「阿字観」,キング:第一流の大家によって演奏された名曲である
 一朝普門「三谷」,リーガル:佛教音樂として尺八樂の神髄を傳へた模範的演奏である
 第二十世一朝軒「薩慈」,キング:第一流の大家によつて演奏された秘曲である
 一朝軒「鶴の巣籠」,キング:第一流の大家によつて演奏された秘曲である

尺八古典本曲の中の「選奨」も,かなり偏りがみられるのですが,ハテサテ?

なお,1942年という発行年から外国の曲がどのように扱われているか興味のあるところですが,該当するのは,「(一)紹介,(ハ)外國人の作曲又は編曲に係るものにして邦人又は外國人の演奏したるもの」で,すべてクラシック音楽です.演奏者の国籍は不明なのですが,作曲者を国別にすると英国2,オーストリア(モーツァルト)3,ドイツ3,ロシア2,フランス2,日本1,不明1でした.つまり,意外なことに,同盟国に偏ってはいないようです.この時点ではまだ英国・ロシアも良かったのかもしれません.米国はさすがに入ってはいません.

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文部省社会教育局(1936)「文部省推薦認定レコード目録 第5輯」

国会図書館で公開されている文献です.(著作権保護期間終了)

文部省社会教育局(1936)「文部省推薦認定レコード目録 第5輯」文部省社会教育局 (昭和11年)

Record1936

この時代に文部省推薦認定というのがどういう意味をもつのか,私にはよくわかりませんが,私の子供のころの「文部省推薦」の意味から類推すれば,正統的,高尚,「教育」的などの,強い意味があったのではないでしょうか.

凡例
本書は本省に於て昭和七年六月より昭和十一年五月迄の間に推薦及認定せる蓄音機レコードを整理輯録したるものにしてレコード利用上の資料たらしめんとするものである

「推薦レコード」の区分と「認定レコード」の区分がありますが,後者には琴.尺八関係のレコードは含まれていません,「推薦レコード」の中に「琴尺八及三曲」の区分があります.ここに含まれる全73盤のうち,地唄・箏曲が29,いわゆる新曲が38,民謡が3,尺八古典本曲が3です.

尺八古典本曲は;
 上田芳憧・上田竹童「鶴の巣籠・追分」,コロムビア,藝術的
 宮川如山「虚空」,コロムビア,藝術的
 宮川如山「調子・阿字観」,コロムビア,藝術的

ちなみに民謡3盤はすべて尺八演奏で;
 菊池淡水・榎本秀水「江差追分」,コロムビア,娯樂的
 菊池淡水・外二名「松前追分」,太陽,娯樂的
 吉田晴風「正調追分」,ビクター,藝術的

尺八本曲として3盤が入っているのは,この時代としては意外に多いのではないでしょうか.ただし琴古流本曲や都山流本曲が入っていないのもやや不思議に感じます.目的区分として児童的,娯楽的,芸術的の3区分があり,尺八古典本曲はすべて芸術的ですが,民謡は娯楽的と芸術的に分かれています.

なお,端唄・小唄の区分に民謡が多く含まれています,当時の文部省としてはそういう扱いなのでしょうかね,庶民的,土俗的なものは相手にしないのでしょうか.現代の目でみて奇妙に感じるのは,薩摩琵琶の区分と筑前琵琶の区分で,これらでは伝統的な演目よりも戦記ものが多いのです.

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兵藤裕己(2009)「琵琶法師 <異界>を語る人びと」

兵藤裕己(2009)「琵琶法師 <異界>を語る人びと」,岩波新書

私は琵琶法師を,単に平家琵琶の伝統を歌い継いできた芸能者と考えていたので,この本での琵琶法師の説明には驚くとともに,その存在にあらためて興味を持ちました.

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著者は文献を駆使して謎解きをするかのように琵琶法師の出現,存在の意味,近世身分社会の中での存在位置,そして現代での消滅を描きます.中世での芸能と宗教の不可分の関係を軸にして,異形の存在である盲目の宗教芸能民として琵琶法師を語ります.琵琶法師の語りと存在は,異界への窓口となっています.

この岩波新書にはDVDが付いていて,熊本に在住した,最後の琵琶法師山鹿良之(やましか・よしゆき,1901~1996)の演奏が見られます.この演奏には怖ろしいほどに驚きました.

著者によれば「琵琶の弾き語りのみを唯一の収入源とした山鹿は,常人の想像を絶する生活苦のなかで,三人の配偶者と死別し,一人は失踪し,五人の子どもを亡くすという悲運にみまわれた.(中略)だが,(中略)盲目の芸人にたいする近代人のヒューマニスティックな思いいれや感傷などは,(中略)山鹿の琵琶演奏と語りの声のまえで,手もなくはね返されてしまう.」「異界からのざわめきのような琵琶の響きと語りの声が,ことばによって構築・編制されたこの世界に亀裂を入れ,人としてあることの根源的な哀感に私たちを向き合わせる」

著者の表現が決して誇張でないことは,このDVDに記録された15分間の演奏でも十分に判り,圧倒されて言葉を失ってしまいました.

山鹿の妻の一人は瞽女で,また琵琶法師の演目は先日の新潟の高田瞽女の演目と重なります.瞽女もまた雪に閉ざされた村人にとって異界への窓口だったのでしょう.

虚無僧はこれら異形の宗教芸能民より遅れて近世になってから出現します.尺八という楽器を演奏しながらその初めから芸能民になることを拒否し,しかし本質的な意味での宗教者にもなりきれなかった虚無僧が,琵琶法師や瞽女に100年以上もさきだって消えたのは,かならずしも明治新政府の政策のためだけではないと考えたほうが良いように思われます.では彼らの本曲とは何なのかという問いを,この視点からも問うてみたいと考えています.

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